ピレリがなんと140周年を迎えて、イタリア大統領と面会したそうです。
タイヤを作り続けて140年とは驚きです。
ピレリといえば、昨年からはF1のタイヤサプライヤーとしてかなり頑張ってますよね。
そして市販車でも、「ピレリ P ZERO」をはじめとした高性能スポーツタイヤもおなじみ。先日、「チントゥラート」というパフォーマンスタイヤを発表したのも記憶にあたらしいところです。
そのほかに、世界的に著名なフォトグラファーを起用したセクシーなカレンダーが毎年販売されています。
以下、リリースも長いのですがピレリの歴史などがかかれていて、面白いです。

左:マルコ・トロンケッティ・プロヴェラ ピレリ会長兼CEO 右:ナポリターノ大統領
<press release>
ピレリ 会長兼CEO マルコ・トロンケッティ・プロヴェラをはじめとする首脳陣が、ジョルジョ・ナポリターノ イタリア共和国大統領と面会し会社創立140周年の記念の祝辞を受ける
2012年10月9日、ローマ
1872年に創業し、今年創立140周年を迎えたピレリの会長兼CEOのマルコ・トロンケッティ・プロヴェラ(Marco Tronchetti Provera)と主だった首脳陣は、10月9日に、ジョルジョ・ナポリターノ イタリア共和国大統領と面会し、会社創立140周年記念の祝辞を受けました。
マルコ・トロンケッティ・プロヴェラのコメント:
「ピレリ社創立140周年を迎えて、ナポリターノ大統領より祝辞を頂戴したことを大変光栄に思います。この慶事を36,000人の全従業員と共に祝いたいと思います。ピレリの従業員はイタリアの優良企業であるこのグループで共に働くことを誇りに感じていると思います。我社はこの140年の間に著しく成長を遂げてきました。1872年以来、常に新しい境地に到達しようと、一貫して仕事に対し情熱と創造力を注ぎ込み、様々なアイディアや最先端の技術を実現して来ました。それは、1872年にわずか24歳の若さで会社を設立したジョバンニ・バッティスタ・ピレリが独自の近代性を提唱し、それを受け継いだ孫のレオポルドがイノベーションと研究開発にコミットし全力を注ぎ始めたときから変わることはありませんでした。常に未来志向である我々は、140年の歴史の重みは日頃はあまり感じてはいませんが、蓄積された経験の中で、イタリア工業史にしっかりと根を張っている我社は、その中における企業としての役割や責任を果たさなければならないと感じています」
ピレリ 140年の歩み
1872年1月28日、イタリアで初のゴム製品の製造会社として、”G.B. Pirelli & C.” 社を創業
1879年、”G.B. Pirelli & C.”社が、電気エネルギーと通信伝達用ケーブルおよび伝導体の製造に着手し、海底電信網における世界的リーダーとしての地位を築きました。
1890年、会社は拡大し、ポルタ・ヌォーヴァ(Porta Nuova)とポンテ・セーヴェゾ(Ponte Seveso)の工場に加え、ベロシペード用タイヤ工場新築のために、ミラノに土地を購入。このタイヤは後にソリッド・ラバー・リングとなります。
1902年、グループはスペインのバルセロナ近郊に工場を開設。この初の海外進出を契機に国際化が始まりました。その後、イギリスのサウサンプトン (1913)、アルゼンチンのブエノス・アイレス(1917)、スペインのマンレサ (1924)、イギリスのバートン・オン・トレント(1928)へと工場建設が進められました。
1907年、イターラ号を運転したシピオーネ・ボルゲーゼ侯爵が北京パリ・ラリーで優勝し、ピレリに国際レースの大舞台における初勝利をもたらしました。その後、ピレリは2輪と4輪の両競技で成功を収め、ヌヴォラーリ、アスカリ、ファンジオなどのチャンピオンたちがピレリの地位を揺るぎないものとしました。
1908年、ロングPのロゴマークが誕生。このロゴは、アメリカ市場において、競合製品との差別化を図るためにニューヨークで考案されたものです。1904年よりジョバンニ・バッティスタ・ピレリと共に会社経営に参画していた息子達、ピエロ・ピレリとアルベルト・ピレリがロングPを自分たちのサインに使用していたことから得た発想でした。今日、ピレリブランドは世界中で最もよく知られるブランドの1つとされており、そのブランド価値は22.7億ユーロと推定されています。
1922年、Pirelli & C.がミラノ株式市場に上場。1929年には、イタリア企業として初のニューヨーク株式市場上場を果たしました。1929年には、グループにとって重要不可欠なブラジルにおいて1つめの工場を建設しました。ブラジルでは現在、5つの製造施設が稼動しています。
1924年、ピレリはケーブル業界における革新的技術での特許を取得しました。以来、事実上、世界中の高圧電力線がピレリの技術を使用しています。
1932年、創始者ジョバンニ・バッティスタ・ピレリが死去。戦争中、ミラノにあるピレリの工場は大きなダメージを受けましたが、同盟国政府による管理を経て1946年にピエロ・ピレリとアルベルト・ピレリが会社に復帰しました。
1948年、“Rivista Pirelli”誌が創刊されました。この雑誌は、テクノロジーとヒューマニスト文化を融合することを目的とした、一般大衆向けの最も重要なパブリケーションのひとつでした。
本誌においては、約30年間にわたり、文学、グラフィックデザイン、芸術の各界の巨匠が数多く登場しました。ムラス(Mulas)、メンディーニ(Mendini)、グットゥーゾ(Guttuso)といったアーティストやデザイナーとのコラボレーションが実現したピレリのコミュニケーションが生まれたのもこの時期でした。
1953年、チントゥラート(Cinturato)が誕生。これはピレリのラジアル技術のデビューでもありました。
1956年8月7日、ピエロ・ピレリが死去。アルベルト・ピレリが会長に就任。4年後、ミラノにグループの本社が新設されました。建築家ジオ・ポンティの設計によりミラノ・セントラル駅の向かい側に建設されたこのビルは、現在でもミラノのシンボルとなっています。
1964年、ビートルズのマジカル・ミステリー・ツアーの写真家として有名なロバート・フリーマンの撮影により、最初のピレリカレンダーが製作されました。ピレリカレンダーは発表と同時に熱烈なファンによる支持を受けました。
第40版となる、2013年ピレリカレンダーは、スティーブ・マッカリーが撮影しました。
1965年、83歳となったアルベルト・ピレリはグループの名誉社長となり、息子のレオポルドが社長に就任し、レオポルドはその後25年間にわたり会社を指揮しました。
1970年代、ピレリとダンロップは、相互にグループ内の子会社の株式を持ち合う連合を行いました。(81年に解消)
この間著しい技術進歩により、Cinturato P7、P6 および P8が発表されました。
1980年代、ピレリは拡大を続け、1986年にはドイツの2輪タイヤブランドであるメツラーを買収しており、メツラーは現在、グループの重要なブランドとなっています。
1992年、マルコ・トロンケッティ・プロヴェラ(Marco Tronchetti Provera -1986年より参画)が最高経営責任者に就任。トロンケッティ・プロヴェラは、グループを再編した後、コンチネンタルの買収に失敗したことを契機に、新技術を以って、極東やアフリカなどの新興市場へ進出し、国際化に向けて舵を採り始めました。
2000年、ピレリは、50億ユーロで、オプティカル・システムズ(光通信技術)をシスコへ売却し、光通信機器部門をコーニングに売却しました。
2001年、ピレリは投資会社オリンピア(Olimpia)を通じて、流動資産の一部を投じテレコムイタリア(Telecom Italia)の株主となりました(2007年迄)。
2005年、ピレリケーブル&エネルギーおよびテレコミュニケーション・システムズがゴールドマンサックスに売却され、プリズミアンが設立されました。
同2005年、山東省に中国初のタイヤ工場を建設し中国における製造ハブとしました。
2006年、ピレリにとってルーマニアで初のタイヤ工場をスラティナに建設。同工場は2011年にさらに拡張されました。
2008年、セッティモ・トリネーゼに、現存する2つの工場を統合した工業的ハブの建設プロジェクトが開始されました。今日では、この施設はグループの最先端技術の研究開発の舞台となっています。
2010年、ピレリは、ピレリブロードバンドソリューションズを売却し、また、不動産業務を取り扱うPirelli Reを分離させて、「純粋なタイヤ会社」へと変貌を遂げました。
同年、会社の資産価値の維持向上と国の文化福祉活動の一環としての起業家文化の促進を目的とした ピレリ財団(Fondazione Pirelli) が発足しました。
2010年6月、ピレリは19年ぶりにFormula 1™ に復帰し、2011年~2013年の独占タイヤサプライヤーとしてとして契約を獲得しました。
ピレリはまた、スーパーバイク世界選手権、フェラーリ·チャレンジ、ランボルギーニ・ブランパン・スーパートロフェオおよびマセラティ・トロフィーのような権威あるワンメイクレースの独占タイヤサプライヤーとしても活躍しています。
2011年、ピレリは、ロシアにおいて、ロシアン・テクノロジーズとの合弁により生産を拡大し、アルゼンチンではメルロ工場の拡張および生産強化を行いました。
同年、ピレリPZero(ファッション)のフラグシップ店「ピレリ・コルソベネチア(Pirelli Corso Venezia)」をオープンさせ、ピレリのコアビジネスをサポートするファッション·コンテキストにおける工業デザインのプロジェクトを開始しました。
2012年、ピレリはPT Astra Otopartsとの契約を締結し、新しい2輪用タイヤの工場をインドネシアに建設しています。この工場は2016年までに年間7百万本の生産能力を持つことになります。5月末にはメキシコのシラオに初の工場が完成し、NAFTA向けのプレミアムタイヤの製造が開始されました。
今日のピレリ
創業1872年のピレリは、今日では2011年の売上高56.5億ユーロおよび販売本数6,600万本を誇る、世界第5位のタイヤメーカーとなっています。 160ヶ国以上で事業を展開し、全従業員数約36,000人、4大陸13カ国(イタリア、ドイツ、ロシア、トルコ、ルーマニア、中国、エジプト、アルゼンチン、ブラジル、ベネズエラ、メキシコ、アメリカ、イギリス)に合計22のタイヤ生産設備を保持しています。
ピレリは、世界をリードするハイエンドおよびウルトラ・ハイエンドタイヤメーカーのひとつで、2015年までに、世界のプレミアムセグメントにおけるリーダーとなる目標を掲げています。研究開発に力を注ぎ、総売上高の約3%および、革新的技術を用いたトップレンジの売上高の7%を研究開発に投じています。ピレリタイヤの活動は、4輪用タイヤ(乗用車、SUV、軽商用車)および2輪用タイヤの各部門に分かれています。また、バス、トラック、農耕機械用タイヤ製造も行っています。イタリアをはじめ世界8ヵ所にあるR&Dセンターでは約1,200名の研究者を擁し、現在は約4,500の特許ポートフォリオを保持しています。社外における研究センターや、大学、自動車メーカーなどのオープンイノベーションプロジェクトを考慮すれば研究者の数はその2倍になります。
2009年から現在まで、ピレリは合計約15億ユーロを研究開発に投資していますが、その内の約1.5億ユーロ以上は、セッティモ・トリネーゼにあるグループの最先端技術センターに投資されています。製造工程や製造施設におけるたゆまぬ技術革新を維持するという戦略の下、2015年には、ピレリの生産量の60%は10年以内に建設された工場で生産されることになります。その目標を追求する上で、ピレリは、国際的高レベル基準で策定されたサスティナブル・マネージメントに基づき運営されています。ピレリは、2015年までのインダストリアルプランで述べている通り、ステークホルダーの期待に対し最大限の成果を示すために、持続可能な環境·社会·経済計画のさらなる強化に取り組んでいます。
1907年以来、モータースポーツ活動も活発化して、スーパーバイク世界選手権やフェラーリ·チャレンジ、ランボルギーニ・ブランパン・スーパートロフェオ、マセラティ・トロフィーといったワンメイクレースの独占タイヤサプライヤーを務めており、また、2011年~2013年の3年間、技術革新の挑戦の場としてモータースポーツ界のトップに位置するFormula 1™ にも独占タイヤ供給を行っています。この分野におけるコンパウンド開発やモデリングなどの技術は、乗用車用タイヤ開発にも生かされています。F1での経験はピレリブランドの拡充に貢献しており、2011年に実施されたインターブランド社によるブランド評価の価値は22.7億ユーロと見積もられています。それは、製品の優位性をはじめ、ピレリカレンダーの名声、Formula 1™に参画していることのプレステージ性、ファッション業界への参入、そして、2002年から開始されたPzero工業デザインプロジェクト、2011年にミラノにオープンした最初の旗艦店Pirelli Corso Veneziaなどにおける、総合的な価値が評価されたものです。
140年の伝統は、ピレリをイタリア産業界の主役へと押し上げました。2009年、グループの文化および歴史的遺産や文書を広く普及させることを目的とした、ピレリ財団(Fondazione Pirelli)が設立されました。現在は、ピレリとピナコティカ・ディ・ブレラ、ファイ・フォンド・アンビエンテ・イタリアーノ、ペギー·グッゲンハイム·コレクション およびトリエンナーレ·ディ·ミラノとのコラボレーションも進行中です。2007年ピレリは、毎年ミラノとトリノで開催されている国際音楽祭“MITOセッテンブレ・ムジカ”のスポンサー活動を開始しました。
ピレリはまた、ミラノの文化に根ざしつつ国際的に開かれているハンガービコッカ財団(Fondazione Hangar Bicocca)の創始メンバーです。音楽と演劇の世界において、ピレリは、長年にわたってスカラ劇場財団をサポートしており、現在はテアトロ・フランコ・パレンティとピッコロ・テアトロ・ディ・ミラノのパートナーでもあります。ピレリはまた、ダイアログ・イン・ザ・ダーク・プロジェクトの“La Milanesiana”をサポートしており、ISEC財団のインスティテューショナル・パートナーでもあります。